元ホームエネルギー部でご活躍された吉見さんは退職後、密教の聖地、高野山大学大学院で学びました。
彼が書いた学術論文を拝読する機会に恵まれましたので皆さんにその一端をご紹介させていただきます。
論文のタイトルは【肥前国松浦郡田浦考序説】でサブタイトルに「遣唐使の風待港、相子田停・合蚕田浦・肥前田浦を新たに考える」とあります。
平安時代初期、桓武天皇のとき、仏教界の腐敗を改め、その刷新をはかりました。
この動きは最澄・空海など新しい仏教思想家の出現を促すことになりました。
延暦23年(804)、遣唐使節団の一員として第一船に空海が、第二船に最澄が乗船していました。
出発地とされた肥前国松浦郡田浦(現、五島列島)の場所を求めて、吉見さんは博多湾から五島列島の南西端まで島々津々浦々を踏破し、またある時は漁船の協力を得て潮流を調べ、先人が特定した場所の矛盾を指摘し、新たにその場所を推論しています。
その場所は出航する複数の遣唐使船の逗留が出来る停(トマリ)としての条件を備えた五島列島、奈留島の船廻湾と断定しています。
地名の歴史的推移に関して、漢字と「音」との関係についても詳しく調べて理論付けてあります。
また、数多くの参考文献から146の引用を用い、なかなか重みのある論文で、内容は次のように構成されています。
1.はじめに
2.遣唐使の風待港について
3.「肥前国風土記」に記される遣唐使の停
4.先行諸説とその問題点
5.相子田停・合蚕田浦を新たに考える
6.肥前国松浦郡田浦を新たに考える
7.おわりに
この学術論文は高野山大学大学院紀要第十一号に記載されたもので、完成までのご努力に敬意を払う次第です。
(栗山 記)
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