関東支部歴史散策会

平成31年01月05日


2019年の最初の歴史散策です。3月5日は快晴で、又とない散策日和でした。 
「世田谷散歩」 と題して、梅を鑑賞しながら世田谷の史跡・名所を巡ります。 13名が元気にスタート地点の小田急梅ヶ丘駅を出発しました。 梅ヶ丘駅前には、都内を中心に名古屋、香港にも店舗を展開している 「美登里寿司」 の本店がありますので、一寸、店の外観を覗いてみました。名前が売れているほど大きな店ではないようでした。
先ず、ちょうど梅が満開の 「羽根木公園」 を訪れました。 昭和42年に55本の梅を植樹したのが始まりとのことですが、現在は、約60品種の梅が約650本 (白梅約420本、紅梅約230本) あり、立派な梅園となっています。
国士館大学の地域交流文化センターに立ち寄り、小休止をしてから、吉田松陰を祀る松陰神社に行きました。 かつて長州藩の別邸があった場所に、松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作などの門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬されました。 1882年 (明治15年)、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。
「松陰先生他烈士墓所」 と名付けられた域内墓域には、吉田松陰の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、その他烈士の墓碑があります。
世田谷線松陰神社前駅の駅前通りで、三々五々に分かれて昼食をとりました。 昼食後、世田谷線沿いに歩いて 「世田谷城址公園」 へ出ます。 昭和15年に開園した世田谷区内唯一の 「歴史公園」 で 「東京都指定文化財」 にもなっています。 公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園です。
世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであると言われています。 以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれました。 
1590年 (天正18年) 豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたため、廃城となりました。 その後は、烏山川 (からすやまがわ) 緑道に沿って歩き、井伊直弼の墓で名高い 「豪徳寺」に出ます。 本寺の付近は、中世の武藏吉良氏が居館とし、天正18年 (1590年) の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされています。
寛永10年 (1633年)、彦根藩主 井伊直孝が井伊氏菩提寺として伽藍を創建し整備しました。 寺号は直孝の戒名である 「久昌院殿豪徳天英居士」 に依っています。 また、招き猫発祥の地とする説もあります。 井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩薩所としたといいます。
次は、 「世田谷八幡宮」 です。 寛永5年 (1091年)、後三年の役の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため滞在することになりましたが、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に祀りました。 後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年 (1546年) 社殿を再興させて発展させました。 かつては、奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石があります。
さらに烏山川緑道を進むと小田急経堂駅に出ます。 経堂駅から更に足を延ばして、朝出発した梅ヶ丘駅に到着して、本日の散策は終了としました。
歩数は2万歩を超えている模様でした。 反省会を美登里寿司で開くつもりで本店に予約しましたが、長い待ち時間に耐え切れずに 結局、中華風居酒屋で済ませました。 身近な世田谷区でも知らない所が多いというのが反省点の一つでした。

                                          (重富記)


参加者


羽根木公園の満開の梅


世田谷城跡公園